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My First Encounter with India

「韓国からは陸路ではどこにも行けない、国境を接しているのは北朝鮮だけよ」

釜山の旅行会社で僕は呆然と椅子に座っていた。1989年の夏のことだ。
飛行機を使わず世界一周をすると宣言して、4年生を前に大学を一年休学した。愛読していた「深夜特急」の影響も多分にあったが、あと一年で心太のように社会に押し出されていくのにとても耐えられなかったのだと思う。とにかく一度立ち止まりたかった。2月に休学を決めてから遮二無二にアルバイトをしてお金を貯め、8月になる前に日本を出ることが決まった。
出発は大阪の南港。フェリーの目的地は釜山。

実際のところ、日本から航路で行ける場所は当時それほど多くなかった。確か、中国、韓国、ソビエトの3ヶ国だったと思う。沢木耕太郎がフェリーで上海にむかったので、真似していると思われたらいやだから(実際はものすごく影響を受けているわけだが)上海は除外。ソビエトは気が進まないということで、消去法で最初の目的地を釜山となった。
数少ない友人が開いてくれた壮行会の翌日、夜行列車で大阪へ。梅田で道を教えてくれたおじさんの関西弁のやわらかさ、人間同士の距離感の近さに驚く。

旅のはじまりだ。

釜山で数日ぼんやり過ごし、さて次はどこに行こうかと訪れた旅行会社で言われたのが、冒頭の言葉だった。
陸路ではどこにもいけない。航路の行く先は日本だけ。
僕の世界一周双六はサイコロを一度振っただけで行き止まりになってしまった。
さてどうする。日本に一度戻るのか。壮行会を開いてくれた友の顔が浮かぶ。旅行会社の椅子に深く座り込み黙考、陸路の旅は諦め、航空券を買うことにした。 
バンコク経由ニューデリー行き。
これが僕のインドとの付き合いのはじまりだった。

バンコクを出た飛行機は夜のインディラガンジー空港に着陸した。荷物を受け取り、出口に向かうとガラスの向こうの暗闇で大勢の男が目を光らせこちらを見ている。この中に出て行かなくてはいかないのか、怖気付きつつ扉の外に出るとあっという間にタクシードライバーに囲まれる。怒号が飛び交う中、荷物を抱え込み、密集かき分けて進みなんとか路線バスに飛び乗り座席に座り込む。バスに揺られながらオレンジ色の街灯に浮かび上がったオールドデリーの街を茫然と眺めた。

翌朝、寝ぼけ眼のままホテルの外に立っていると、暇そうなインド人たちの目の据わった無数の視線にさらされていることに気がついた。追われるように歩き出すと、物売りが延々とまとわりついてくる。物乞いは僕のTシャツの裾を掴んで離そうとしない。野良犬、牛、ラクダ、猿、挙句のあてに象までが狭い路地に犇めく。そんなオールドデリーを熱に浮かされたように毎日歩き回り、時に本当に熱を出しうなされたりもした。なにもかもが痛いほどに刺激的だった。

南インドのゴアという海辺の町には3ヶ月ほど滞在した。中でもアランボールという北のはずれにあるビーチは人も少なくお気に入りだった。海から少し入った森の中に住み、毎日海で泳いだ。村人自家製の椰子酒、薪窯で焼いたパン、魚を海で釣ったり、贅沢をいわなければ十分な生活がそこにはあった。野宿していた森の中で見た流れ星の美しさは今でも忘れられない。

カーストによる差別も露骨に体験したし、理不尽な体験に納得がいかないことも多々あったが、言いたいことをぶつけ合えるインドのスタイルが肌にあっていたのだろう。結局僕は世界一周することなく8ヶ月の旅を終えインドから帰国した。

その後卒業単位を取った僕は卒業式を待たずにインドへ、そして30年たった今も毎年インドに通い続けている。

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2021年、コロナウイルスの蔓延が収束に向かっているかに思えたインドは、変異株の出現によって危機的な状況に陥っています。インドの友人たちとは連絡を取り合っていますが、現地の状況は大変なようです。何人かの友人がコロナにかかり、ご家族を亡くされた方もいます。また再びインドに行ける日が来るのはいつでしょう。笑顔で会える日が1日でも早く来るように祈らずにはいられません。

この文章は毎年参加しているforstockistsという展示会が、昨年中止になり、期間限定のHPを作った時に、ブランド紹介で書いたものです。インドやネパールのことを思っていたら、初めてインドに行った時のことを思い出しブログに載せることにしました。

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